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見るなの蔵


夢を見た。
障子を開けはなし、縁側の向こうに丹精した庭が見える。
座敷の真ん中、畳の上に新聞紙を広げて、その上に下敷き、そして大きな紙にむかって習字をさせられている。

なにか描きたい、と言ったのに、どうしてこんな羽目になったのだろう。
思いつつ墨をする。
外からからから風が叩く音がする。
なんでわざわざ水から摺る。
母の里のことで、学童用の墨汁がない。
大きな平机の上にはおばあちゃんの絵の道具が並んでいる。
色粉、絵皿、さまざまな筆。
物心つく前から触ることは禁じられていた。
おばあちゃんの絵や、床の間の掛け軸を見て何か描きたいと思ったのに。
子どもの浅知恵は、赤子の手をひねるより簡単に方向転換をさせられた。

墨の濃さを新聞紙の端でためし、それから筆を下ろそうとしたら、いつの間にかはじめちゃんが横から覘きこんでいた。

― 三つの願いが叶うとしたら、お前、なに頼む?
― 描く。
― それから?
― それから?
― もう ふたつ。
― 犬飼う。白い大きいん。
― それから?
― それからなあ。
天井の木目が目にはいる。蛍光灯から糸が下がっている。欄間ひょうたんの紐がながれている。
はじめちゃんは、里の叔父さんみたいな縞の着物を着ている。ゆったりと中腰になって、おもむろに墨を指でなめる。
三つ目ねえ。
― 三つ目は、ええわ。
― なんや、それ、
― ふたつでええ。
考えるのも面倒くさい。
― あるやろ、もうひとつくらい。家内安全、無病息災、高額収入、打出の小槌とか。
― はじめちゃん、それしい。
― お前に聞いとんじゃ。
― うーん。別になぁ。
天井の隅に蚊帳をつる止め具がある。今日の夜も大人が寄ってたかって蚊帳をつってくれるのだろうか。夏休み、おばあちゃんの家に泊まると、一日目はいつもどこか大騒ぎだ。
― 無病息災にしとこかな。

目が覚めた。
カーテン越しに中庭の明かりがほのかに部屋を照らしている。
おばあちゃんの日本家屋とは時代も造りも違う西洋建築、安普請。
夢の中で、長い廊下の向こうに広がっていた、日本庭園が今も目に浮かぶ。
おじいちゃんの自慢の庭。
冠木門の脇の大きな棕櫚が風を鳴らしていた。
母屋の裏手には蔵がひとつあった。
今は駐車場になってしまったあの場所。
毎年実がなりはじめると、カラスに取られないように紙袋をかけてもらっていたあの柿の木。
三つの願い。
子どもの浅知恵。
ベットでぼんやり白い天井を見上げる。
もう一度、おばあちゃんちに戻れるなら。




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