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迷い鮭


幼稚園のとき親の都合でヨーロッパに引っ越した。
夏休み遊びに来た従弟が言った。
 イイネコンナトコロニスメテ
小学校に入るかはいらないかで帰国するはずだった。
親が転職した。
必要なかったはずの現地語で授業をホントに受けなきゃいけない破目になった。
グリーンのクラスは難民、移民、親の引越し、偶然。奇遇、いろんな国の子がいっぱいいた。
日本人はいなかった。
朝の八時から夕方四時までちんぷんかんぷん。
お腹が痛い、といっても、こっちは子どもをひとりで家にはおいて置けないの、と学校に車で連れて行かれる。
歩いて帰れる距離じゃない。
行ったら行ったで迎えにきてもらえるまで帰れない。
親は仕事の都合で学童保育まで申し込む。
夕方六時までちんぷんかんぷん。
食べる、トイレ、休み時間、体育、これはなんとかついていける。
先生の言うことも周りの話もわからない。
視力検査の絵すら言えない。
夏から家庭教師の先生が来た。

家庭教師がいるなら延長保育はいらないだろう、
思ったこっちがバカだった。
夕方六時から夜の八時までちんぷんかんぷんの学校の授業をもう一回おさらいさせられる破目になっただけ。
ゲームもない。おやつも買いにいけない。
友だちの家にも遊びにいけない。
すべてが親の送り迎えに頼る日々。
学童保育も授業中も、ひたすら絵ばかり描いていた。

高校は美術系に進む。

廻りはなんだか変わったやつばかりで、無理に話さなくてもいいんだと思ったら妙に力が抜けて、はじめて毎日が楽しくなってきた。
つるんでいる姿を見て、母親が、類は友を呼ぶだったのね。今までの学校が普通すぎたんだわ、とけらけら笑った。
うれしそうな笑顔を見たのは初めてだった。

十八歳、国籍をとれる年になった。
 ズルイ 自分バッカリ
従弟は言った。
 コウモリ ミガッテ エゴイスト
親の実家から親戚から電話やメールがひっきりなし。
 イイトコドリ、ウチラヲ見捨テルンカ

こっちを責めるのはいい。
いい年をして親をあげつらうのはやめてくれ。
自分で決めたことなんだ。

ズルイズルイズルイ

母は隠れ蓑をかぶってしまった。
父は聞き耳頭巾らしい。

オオオカサバキ
テヲハナスオヤ
カワイイ子ニハ旅ヲサセロ

ふたりから、その言葉が出るまでどれだけ時間が必要だったと思っているんだ。

今生ノ別レジャナインダカラ。
国籍ヒトツデ中身マデ変ワルワケナイジャンカ。

ごめんね。
もしもパスポートを落としたら、戸籍を取りに日本のおばあちゃんにわざわざ坂を下りてもらわなきゃいけなくなるんだ。
おばあちゃんの家は坂の上にあって、役場は海の近くにあるから。
降りるのに父さんでも三十分。そこから帰る時は坂は上り坂になっている。
それよりも自分で一から十まで面倒が見れるこっちの国籍が今は取れる。
住むところも働くところも、自由になるし。
こっちの国籍があれば学校で美術が教えられる。
閉じこもった子達と、一緒に絵を描いて過ごせる。
日本が嫌いなわけじゃない。
好きで天秤にかけたわけじゃない。
でも。

決めたんだ。

ごめん。



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